5月5日 予想外の報告
フィリピン出張中、宗像大社葦津宮司より国際電話が鳴り、
「世界遺産の件でイコモスの勧告に、沖ノ島は登録だけど大島・宗像大社・新原奴山古墳群は入ってないんだよ!たいへんなことだよ!逆転して登録しなければいかんのよ、代議士に力を貸してほしい!」といつもは冷静な宮司が興奮してかけてこられた。
私としてはこのような勧告が出るとは予想もしていなかったので、突然の電話に“事”の重要性とその対処策について一瞬想像出来ず、頭の中は真っ白になった。
帰国後早速、宗像大社でその日の昼食のハヤシライスを頂きながら打ち合わせを行った。何はともあれ地元福岡県、宗像市、福津市が連携し、政府にしっかり地元の考えを伝えて本気になってもらおうということになり、小川知事とも打ち合わせの上私から、菅官房長官、岸田外務大臣、松野文科大臣、麻生財務大臣にアポイントを取りみんなで陳情をすることになった。
5月19日 戦略を再検討
上京し、(松山、大家両参議にも同席してもらい)それぞれ大臣ご本人に会い直接お願いをすることが出来た。
四大臣とも地元の思いを理解してもらい、“政府は全力を挙げて全部の施設の登録を目指すから”(菅官房長官)との心強い返事をもらった。
すると早速私のところに外務省からは高橋室長、文化庁からは岡村課長と岡本室長が来てくれ、そもそも世界遺産登録の手続きや、ロビー活動の方向性や戦略についてレクチャーを受けた。
・どうして勧告の中で、8構成資産から4施設が外されたのかの分析
・そもそも、世界遺産会議での決定過程の中身の詳細
・成功事例である三保の松原の際の経緯
等々、これから取組むに当たっての整理をすることによって我々地元関係者がやれるべきことを探った。
8つの全ての構成資産は切り離せないという一体性や継続性を理解してもらうための「ロジック」づくりには、地元関係者からも協力が出来るかもしれない。また、とにかく地元の熱意を示すことと、今後世界遺産として地元は守り続ける確固たる意志があることを伝えるのが最も重要なことだと感じた。
関係者の懸命なロビー活動
各国との交渉については、政府関係者が直接ロビー活動として根回しに奔走するわけであるが、その進み具合については逐一報告をもらった。高橋・岡本両氏の報告の際の顔つきは、日に日に緊張感が増し、そして自信を持ってきているように感じられた。
7月6日 現地に入る
7月6日、我々も現地ポーランドに入り会議を見守った。審議2日目、7日の終盤には日本のこの案件が取り扱われるのではないかと思われていたが、それぞれの案件についての議論が長引き、とうとうその日には審議されず次の日へと延期された。まさに水入りとなった。政府及び地元関係者も緊張感の連続で疲れがピークのようであったがそれぞれ眼はギラギラしていた。
7月8日 ついに審議に入る
とうとう本番となった8日は朝から大変いい天気であった。会議は前日の残りの2つの案件を処理したあと、‟「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 ” の審議に入った。21ヶ国の理事国の内13ヶ国から意見表明があり、次々発言があった。
逆転満塁ホームラン
息を飲んで聞いている我々の耳に入ってきたのは8構成資産の一体性に対する賛同の意見ばかりであった。全ての国から完璧に日本の修正申請に賛成する発言が相次ぎ、あっという間に議長から採択のハンマーが鳴らされた。
“逆転満塁ホームラン”の瞬間を観ているようであった。まさに歴史的な場面を目の当たりにした。早速、宮田文化庁長官を中心に地元の谷井宗像市長、原﨑福津市長、伊豆県議、葦津宮司とともに記者会見を行った。皆さん興奮と感激の表情で…。そして、それぞれ抱き合って喜んだ。
夜は関係者がそろって、ささやかに打上げ会を開いた。佐藤ユネスコ大使、宮田文化庁長官を中心に関わったほとんどの政府関係者、地元から駆けつけた全てのメンバーで乾杯をし、まさに勝利の美酒に皆で酔った。最終日の夜は最高のディナーとなった。
帰国後、早速関係大臣のところにお礼に伺ったが、皆さん大変喜んでくれた。こんな大満足で晴れやかな気持ちでご挨拶に行けるとは想像もしていなかったので、本当に“ツイてるな”と心から思った。
地元の想いが世界に通じた瞬間。そして今後も守り続ける。
今回の世界遺産登録への道は、約15年前に遡る。地元関係者の中から「目指そうじゃないか!」と言う声が湧き上がったもので、素直な思いから始まっている純粋性がその原点である。そして長い期間にわたって行政もブレずに貫き通した一貫性と、その下で地域住民の地道で献身的な努力があったからこそ、その願いが世界各国に方々の心に通じたのであろうと思う。
まさに関係者全ての人々の心に神が宿っていたと言えるのではないだろうか。皆がそれぞれの時代にそれぞれが出来る事を提供しあい、そして貢献しあって皆の総力戦でつかんだ世界遺産である。だからこそこの想いを今後大切に大切に育みそして伝え、遺産を守り、この地域の豊かな発展を作り上げなければならないと、改めて痛感している。私にとっては、素晴らしい経験であり、勉強であった。
クラクフの街並み
クラクフ市街地にて
インドネシア大使と