衆議院秘書協議会発足50周年を記念し「秘書の風景」という本を出版することになり、議員秘書を経験した自民党の国会議員を代表して、寄稿させて頂くことになりました。
秘書協議会とは、秘書の待遇の改善のみならず、多くの方もお越しになる議員会館の制度改善など、様々なことを協議する組織で、私も秘書時代には秘書協議会の副会長でありました。
今回は、本に寄稿した箇所を以下に掲載させて頂きますので、是非ご一読くださ
い。
私は、大学生の時分から出身地である愛媛松山から選出されていた塩崎潤先生の議員会館の事務所へ出入りするようになった。
きっかけは親戚の叔父貴からの進言であった。
国会見学の手伝いをしたり、ハガキに宛名書きをしたり、党本部の部会に行っているうちになんとなく楽しくなったり、政治に興味深くなったりし、知らず知らずのうちに塩崎事務所のファミリーの一員となってしまった。当時はそんな流れで秘書になった仲間は少なからずいた。
就職活動が上手く行かず悩んでいたそんな時、塩崎先生が外遊帰りに私宛のお土産のネクタイを買ってきてくれて、「宮内、俺の秘書になれ!政治は面白いぞ!」と直接話をもらった。それが私の人生を変えた瞬間であった。
その後、早速「俺の家に住んだらええやないか。」との一言で住み込み書生となったのであった。その後5年間お世話になった。当時、「あんたを秘書なんかにするために育てたんじゃない!」と母が大反対したのを昨日のことのように覚えている。
若い頃の秘書時代は中選挙区制でもあり、自民党同士のサービス合戦が凄まじく、また上下関係のとても厳しい時代であった。秘書の先輩から激しく怒られたり、運転手さんやお手伝いさんにもよく皮肉られたのを覚えている。選挙の際は、地元へ3か月程片道キップで戦場へ送り込まれた戦士のような気持だった。一方で秘書仲間は大変仲が良く、お互い相哀れんだり助け合って生涯の友もたくさん出来たし、なんと私の妻も元秘書である。
今思えば、あの徒弟制度のような環境で理不尽なことに直面しても我慢をしたり、「頑張ろう」と謙虚な勇気を持ってやれた経験が私の人生の基本となって、現在も元気に頑張っていけていると心からそう思っている。
私の秘書生活は通算で約25年程である。
あっという間であったが、今は議員会館も新しく立派になり、昔の会館が思い出せないくらいに景色も空気も変わったように感じる。私は現在の新会館建設の際には、秘書協の新議員会館建設副委員長として秘書の要望の取りまとめをさせてもらった。
少し残念なのは、昔の会館は長屋のような風情があり、まさにお醤油を貸したり借りたりするなどの近所付き合いが頻繁で、会館全体にもっと情が通っていたように思う。扉を開けっ放しで、大きな声で笑ったり怒ったりしていた。年寄りのような言い分だけれど、政治全体にも社会全体にも、人と人との関係性において少し温もりが無くなっている気がしてならない。
さて、そもそも国会議員の秘書は、私設と公設という社会的保障や立場が大きく違う存在が一緒に同じように仕事をしているという、本当に中途半端な制度の下に長年ある。落選したら即給与が無くなる現実の中で不安定極まりない職業である。
かろうじて3人の公設秘書は給与制度や年金制度が保障されているが、私が秘書協議会の副会長をしていた平成16年当時、衆議院の議院運営委員会において、3人分の秘書給与を一括で議員に支給し、議員の裁量権で秘書の給与額が決定できる制度(いわゆる秘書給与のプール制)に変更すべきとの提案が議員側からなされたことがあった。
議員にとっては都合が良い制度かもしれないが、当時秘書協において、「こんなに秘書という職業や立場をバカにした制度への変更は絶対許さない」と誓い合い、与野党の秘書が力を合わせて、賛成する議員と断固として戦ったことがあった。さすがに当時の武部勤議運委員長の我々に対する理解と英断で、現在の秘書制度を守ることが出来たことがあった。
国会議員の秘書は、国政を担う大事な作業の重要な部分で貢献していると思っている。支援者や業界団体との大切なコミュニケーションの橋渡しや、官僚やマスコミとの調整。また、地元の地方公共団体からの要望の実現等々、まさに国会と社会を繋ぐ重要なメッセンジャーの役割を果たす価値ある存在である。
その秘書の社会的地位を上げることは重要であり、 “なりたい職業”として優秀な人材がどんどん入ってくるような制度にしていくことが必要だと思う。このことは、日本の政治全体にとっても大変大事な事だと、代議士になった今も痛切に感じている。
思い起こすと、塩崎潤先生が引退を決意し、最後の本会議が終わって我々スタッフに涙を流しながら感謝の話をしてくれた姿や、初当選した瞬間の選挙事務所の興奮した盛り上がりの高揚感、落選した時の経験したことのなかった脱力感や、追い立てられるようにして引き払った議員会館での引っ越し作業等、たくさんの忘れることの出来ない決定的な究極の経験は、私の大切な財産になっている。